写真から始まる、静かな食の物語
幼い頃から、私はカメラを通して香港の朝を見つめてきた。蒸気の立ち上る粥屋、大きなせいろの隙間から溢れる湯気、そして白く透けるような腸粉に包まれた一本の油条――それが「炸兩」だ。シャッターを切るたびに、ただの食べ物ではない何かを感じる。写真の中の炸兩は、ただの美味しさではなく、街の呼吸や人々の生活のリズムを抱え込んでいる。香港で生まれ育った私にとって、それは日常の断片であり、同時に忘れられない風景でもある。
移民と工夫が重なって生まれた味
炸兩は、単なる点心の一種ではない。その背景には、時代の流れと人の移動が深く関わっている。かつて江浙や上海から香港へ移り住んだ人々が持ち込んだ糯米の朝食文化が、ここで新たな形に変化した。粢飯の代わりに腸粉を使い、その中に油条を包むという発想は、香港らしい柔軟な工夫の表れだ。さらに、かつては余った油条を無駄にしないために生まれたという側面もあり、そこには庶民の知恵と節約の精神が息づいている。私のレンズに映る炸兩は、そうした歴史の痕跡を静かに語りかけてくる。見慣れた一皿にも、目に見えない物語が幾重にも重なっているのだ。
やわらかさと脆さが交差する、朝の儀式
炸兩の魅力は、その食感の対比にある。外側の腸粉は薄く、滑らかで、ほとんど光を透かすほど繊細だが、その中には揚げたて、あるいは少し時間が経った油条の軽やかな歯ごたえが潜んでいる。一口ごとに「やわらかさ」と「さくさく感」が交差し、口の中で静かな対話を生む。そして、この料理は単独では完成しない。温かい白粥とともに食べることで初めて、香港の朝の儀式が完成する。粥に浸して食べる人もいれば、ソースを重ねてそのまま味わう人もいる。その自由さこそが、この街の食文化の魅力だと私は思う。
写真を撮るとき、私はいつもその瞬間の空気を閉じ込めようとする。例えば――
「甜醤油を炸兩の腸粉にかける」
この一瞬の動きの中に、香り、温度、人の手の記憶がすべて凝縮されている。炸兩はただの軽食ではない。それは香港という場所が生み出した、文化と時間の重なりを静かに語る存在なのだ。
先に言っておくと、私の本業は写真だ。二十年以上、香港で千を超えるレストランを撮り歩き、皿の上の一瞬の光を追いかけてきた。料理は逃げないが、美味しく見える瞬間は逃げる。だから私はいつも、まるで事件現場を調べる刑事のようにレンズを構える。犯人は光、被害者は影、そして私はその関係を暴く。
そんな私が、ちゃっかり翻訳もやっているのは単に語学が好きだからだ。写真で皿の表情を捕まえるのと同じように、言葉にも“いい角度”がある。中国語と日本語をいじって楽しむのも、結局はその延長線上だ。
このサイトに写真・デザイン・飲食だけでなく、言語の話題まで並ぶのは──まあ、そういう性分ということだ。
