働く人々が生んだ集いのBBQ【バーベキュー】風景
私が初めてBBQを撮影したのは、まだ光の扱いも手探りだった頃、郊外の焼き場に集まる家族連れを見つめた瞬間だった。香港のBBQは、ただの食事の場ではない。1960年代、工場で働く労働者たちが団体で遠足に出かけ、火を囲んで食べたことがその起源だと聞く。私の写真には、炭火よりも強く、人と人との距離を温める空気が写る。
自助餐のように整然と並ぶ料理と違い、香港のBBQには「一人一叉」という独特の作法がある。手ほどの長さがある二股のフォークを手に、それぞれが自ら焼き、同じ火を囲む。私はその様子をシャッター越しに眺めながら、火を通して共有される時間こそが、この文化の核心だと感じる。煙に包まれながら笑い合う姿は、どこか無防備で、だからこそ真実に近い。
甘さと煙の粒子 ― 味覚が語る香港の記憶
レンズの前で肉がゆっくり色づくとき、私は香港という都市の味覚の記憶を思い出す。港式BBQの魂は、蜜汁と蒜蓉にある。蜂蜜や麦芽糖を塗り重ねるたびに、光は照り返し、肉の表面はキャラメリゼされていく。その瞬間を撮ると、甘くて塩辛い匂いが、まるで写真の中から立ち上がってくるようだ。
定番の焼雞翼は、いつも主役としてフレームの中心にいる。「燒雞翼我鍾意食」というあのフレーズが、頭の中で自然に再生される。赤いソーセージ、墨魚丸、牛肉丸といった街市三宝は、子どもの頃の記憶を呼び起こす被写体だ。すぐに焼け、すぐに食べられるその手軽さは、忙しい香港のリズムとどこか似ている。
さらに、蜜汁叉焼や蒜蓉金沙骨、錫紙に包まれた金針菇といった料理は、私にとって「素材」以上の存在だ。それらは都市の進化とともに変わり、二股フォークも大きなハサミになりながらも、確実に受け継がれる味のアーカイブである。デザートに焼かれるマシュマロが炎に包まれる瞬間さえ、遊び心と危うさが同居する香港らしさを象徴している。
火を起こすという儀式 ― 空間と人をつなぐ文化
撮影を続けるうちに、私は場所そのものが物語を持っていると気づいた。石澳や大美督の公共焼き場では、人々が新聞紙を使い、扇いで火を起こす。その「起炉」の過程は、ただの準備ではない。見知らぬ者同士が声を掛け合い、自然に打ち解けるための儀式のように見える。その光景を撮るとき、私は人間関係が生まれる瞬間を記録しているような気持ちになる。
一方で、新界の大欖や西貢の任食BBQ場では、すでに整えられた環境の中で、人々はより自由に食べ、語る。さらに、屋苑や村屋の屋上で開かれるBBQは、最も私的で静かな時間を映し出す。都市の中で空に近い場所に上り、夜風に吹かれながら火を囲む姿は、まるで喧騒から一歩離れた別の香港のようだ。
急凍食材を使う文化もまた、この街の歴史を物語っている。保存技術が限られていた時代、強い味付けで食材の風味を引き出してきた工夫は、今もなお受け継がれている。私の写真の中で、その味は見えない。しかし、焼き上がる直前に塗られる蜜糖の光沢や、煙に包まれる一瞬が、それを確かに語っている。
炭火の前に立つ人々を撮るたびに、私は香港という場所の輪郭を再確認する。それはビル群でも金融でもなく、こうした小さな火の周りに集まる、名もなき時間の積み重ねだ。
先に言っておくと、私の本業は写真だ。二十年以上、香港で千を超えるレストランを撮り歩き、皿の上の一瞬の光を追いかけてきた。料理は逃げないが、美味しく見える瞬間は逃げる。だから私はいつも、まるで事件現場を調べる刑事のようにレンズを構える。犯人は光、被害者は影、そして私はその関係を暴く。
そんな私が、ちゃっかり翻訳もやっているのは単に語学が好きだからだ。写真で皿の表情を捕まえるのと同じように、言葉にも“いい角度”がある。中国語と日本語をいじって楽しむのも、結局はその延長線上だ。
このサイトに写真・デザイン・飲食だけでなく、言語の話題まで並ぶのは──まあ、そういう性分ということだ。
