香港生まれの写真家が、ただ美味しいのに理由がつかめないまま眺める一皿
サクサクのとんかつの上に、なぜわざわざ何かを足すのか
揚げたてのとんかつは、それだけで完成しているように見える。乾いて、軽くて、噛めば空気を含んだ衣が静かに崩れる。その瞬間を壊さないように、そのまま食べても十分に美味しいはずなのに、日本ではそこにソースをかけるという動きが自然に続いていく。黒くて艶のある液体がゆっくりと表面に広がっていく様子を見ていると、完成していたものに、あえてもう一層を加えているようにも感じられる。その理由はうまく言葉にできないけれど、口に入れると確かに美味しい。美味しいのに、なぜそこまで必要なのかは、やはりよく分からないまま残る。
白いご飯と一緒に食べると、何が起きているのか
とんかつの横には、決まって白いご飯がある。ソースのかかった濃い味の衣を一口食べて、そのまま白ご飯を口に運ぶと、全体がちょうどよくまとまる。その流れはとても自然で、考えなくても手が動く。でも、そのバランスが最初から計算されているのかどうかは、外から見ているとどこか不思議でもある。さらに、千切りキャベツが静かに添えられていることで、口の中が一度リセットされる感覚がある。この繰り返しの中で、ひとつの「食事」が完成していくように見えるけれど、その仕組みをはっきり説明できるわけではない。ただ、全部一緒に食べると確かに気持ちよく美味しい。それだけがはっきりしている。
せっかくのサクサクを、なぜ少し柔らかくするのか
ソースがかかった瞬間、とんかつの表面は少しだけしっとりと変わる。揚げ物に求めていたはずのサクサクが、ほんの少しだけ遠ざかっていく。それなのに、不思議と嫌ではない。むしろ、そのわずかなやわらかさと、まだ残っている内側の軽い歯ざわりが重なって、複雑な感じが生まれる。完全にサクサクのままでもいいはずなのに、なぜその状態を少し崩すのか。その意図ははっきり見えない。けれど、口の中で起きている変化は確かに心地よくて、ついもう一口、と続けてしまう。美味しさは感じるのに、その理由には手が届かないままになる。
ソースだけでなく、卵で煮てしまうのはどういうことなのか
さらに驚くのは、カツ丼の存在である。ソースどころか、とんかつを出汁と卵で煮てしまう。衣はふわりと水分を含み、あのサクサクはほとんど姿を消す。ここまで変えてしまうのなら、なぜ最初に揚げるのかという疑問すら浮かんでくる。それでも一口食べると、出汁と卵と肉が一緒になって、やはり美味しい。とても美味しいのに、そのプロセスの意味がどうしてもつかめない。サクサクで終わらせず、さらに柔らかくしていくこの流れには、何か大切な感覚があるようにも思えるが、それを言葉にすることは難しい。ただ目の前の一杯を食べながら、「分からないけど美味しい」という感覚だけが、静かに残っていく。
先に言っておくと、私の本業は写真だ。二十年以上、香港で千を超えるレストランを撮り歩き、皿の上の一瞬の光を追いかけてきた。料理は逃げないが、美味しく見える瞬間は逃げる。だから私はいつも、まるで事件現場を調べる刑事のようにレンズを構える。犯人は光、被害者は影、そして私はその関係を暴く。
そんな私が、ちゃっかり翻訳もやっているのは単に語学が好きだからだ。写真で皿の表情を捕まえるのと同じように、言葉にも“いい角度”がある。中国語と日本語をいじって楽しむのも、結局はその延長線上だ。
このサイトに写真・デザイン・飲食だけでなく、言語の話題まで並ぶのは──まあ、そういう性分ということだ。
