香港人の視線が捉えた、夕暮れのスーパーマーケットの惣菜文化風景
香港という全く異なる文化圏で生まれ育った「外人」の視点から見ると、日本の夕方のスーパーマーケットはまるで未知のグラデーションを持つ奇妙な空間のように映る。店内の様子を観察していると、多くの買い物客がカゴの中に黄金色の揚げ物である「コロッケ」をいくつも詰め込んでいく光景が目に入るが、この日常的な営みにはどのような文化的背景が隠されているのだろうか。香港の街角では見られないこの「大量の揚げ物を買い置きする」という行為の背後には、どのような家庭の物語や伝統的な食のサイクルが存在しているのか、見つめるたびに尽きない疑問が湧きあがってくる。
「熱気」の概念を持たない異文化への純粋な問いかけ
我々香港人が揚げ物を目にしたとき、頭をよぎるのは常に身体のバランスを揺るがす「熱気(イッヘイ=上火)」という伝統的な医学的警戒心であるが、日本の人々にはこの感覚が全く存在しないのだろうか。高熱でカラリと揚げられた小麦粉の衣とジャガイモの塊をこれほど頻繁に、そして日常的に摂取しても、現地の生活者は喉の渇きや身体の不調を覚えることはないのだろうか。もし気候や風土の違い、あるいは身体の代謝メカニズムに何らかの差異があるのだとしたら、彼らの認識する「健康的な食事」の境界線は一体どこに引かれているのか、異文化の交差点で立ち止まり考察を巡らせてしまう。
黄金の衣に隠された調理科学と日常の知恵
食品科学の視点を通してこのコロッケという存在を観察してみると、高熱によって引き起こされる美しいメニエール反応の裏に、何か特別な工夫が施されているのではないかという仮説が浮かび上がってくる。香港の激しい油を潜り抜けたスナックとは異なり、日本のコロッケの内部は水分を多く含んだマッシュポテトで満たされているが、この構造が口腔内の粘膜に与える影響はどのようにコントロールされているのだろうか。さらに、彼らが必ずと言っていいほど大量の生キャベツを添え、酸味のあるソースをかける行為には、単なる味覚の追求を超えた身体の調和を保つための無意識の知恵が含まれているのではないだろうか。
異邦人として記録する、客観的な食文化の未来
異なる土地で育まれた食の伝統を目の当たりにするとき、それは単なる料理の違いではなく、その国の人々が何世代にもわたって築いてきた生活様式の表れに他ならない。香港のジメジメとした湿気の中で育った感覚と、日本のどこか乾いた秋の空気の中で大量のコロッケが消費されていく光景は、どのようにしてそれぞれの正当性を持って存在しているのだろうか。他方の文化を我々の基準で測るのではなく、ただそこにある不思議な習慣を客観的に観察し、問いかけを続けることこそが、異文化をありのままに捉える探求の旅なのかもしれない。
「熱気」の対岸にある身体感覚、日本人が食に求める「冷え」と「氣」の謎
湯気の向こうに見え隠れする、もう一つの身体バランスへの問い
香港人が「熱気」という言葉で揚げ物を警戒するように、日本人の日常会話を観察していると、彼らもまた独特の身体感覚を表す言葉を頻繁に口にしていることに気づかされる。特に彼らが恐れているように見える「冷え」という概念は、香港人が冷たい飲料を避ける感覚と似ているようでいて、どこか異なる論理を含んでいるのではないだろうか。冬の凍えるような寒さの中でも氷の入った水を平気で飲み干す一方で、特定の食材に対して「身体を冷やす」と警戒する彼らの身体認識の基準は、一体どのような風土から生まれ、どのように維持されているのだろうか。
食卓を支配する「水毒」と「湿気」に対する日本的なアプローチ
四方を海に囲まれ、年間を通じて独特の湿度を持つ日本において、彼らの身体感覚は「水分」の体内循環に異常なほど敏感なのではないかという疑問が湧いてくる。漢方に由来しながらも日本独自に発展した「水毒」という概念は、体内の余分な水分が滞ることで不調を引き起こすとされているが、これは香港の「湿気」による身体の重さとどう違うのだろうか。生魚や冷たい豆腐を好んで食べながらも、同時に生姜やワサビ、薬味といった発汗や代謝を促す食材を必ず添える彼らの食の様式には、水分バランスを緻密にコントロールするための見えない方程式が隠されているのかもしれない。
消化器を労わる「胃もたれ」と「エネルギー」の不思議な関係
香港人が揚げ物を食べて「喉が痛い、ニキビが出た」と皮膚や粘膜の炎症を訴えるのに対し、日本人が同じように揚げ物を食べた後に訴えるのは、なぜか「胃もたれ」や「胸やけ」という消化器内部の不快感に終始することが多い。この症状の現れ方の違いは、単なる体質の差なのか、それとも食材の油分に対する内臓の処理能力の限界値が両者で異なっているからなのだろうか。さらに、彼らが日常的に使う「元気がでる」「スタミナがつく」という言葉の裏には、食材が持つ熱量を炎症としてではなく、純粋な「気(エネルギー)」として変換できるという、彼ら独自の身体的信頼感が前提にあるのではないだろうか。
異邦人の眼が追い続ける、気候と身体が織りなす食文化の境界線
嶺南の湿熱な気候の中で「清熱」を重んじて生きてきた香港人の身体と、四季の移り変わりが激しく、乾燥と湿潤が交互に訪れる日本列島で育まれた身体は、それぞれ異なる方法で自然界と調和を図っているに違いない。どちらの文化も、食べ物を通じて身体の内部環境を整えようとしている点では共通しているが、なぜ一方は「熱」を恐れ、もう一方は「冷え」や「滞り」を警戒するのだろうか。この身体感覚の非対称性をファインダー越しに、そして言葉の端々から観察し続けることは、人間が土地の記憶をどのように胃袋に収めてきたのかを解き明かす、終わりのない旅のようでもある。
先に言っておくと、私の本業は写真だ。二十年以上、香港で千を超えるレストランを撮り歩き、皿の上の一瞬の光を追いかけてきた。料理は逃げないが、美味しく見える瞬間は逃げる。だから私はいつも、まるで事件現場を調べる刑事のようにレンズを構える。犯人は光、被害者は影、そして私はその関係を暴く。
そんな私が、ちゃっかり翻訳もやっているのは単に語学が好きだからだ。写真で皿の表情を捕まえるのと同じように、言葉にも“いい角度”がある。中国語と日本語をいじって楽しむのも、結局はその延長線上だ。
このサイトに写真・デザイン・飲食だけでなく、言語の話題まで並ぶのは──まあ、そういう性分ということだ。
