蜜や麦芽糖が塗られていく瞬間は、何度見ても美しい。醤油や南乳、五香粉で味付けされた伝統的な叉燒に、甘みが重ねられることで、香港ならではの蜜汁叉燒が完成する

赤く輝く、私が最も愛してやまない香港の味のひとつであり、これまで何度もレンズに収めてきた被写体【叉燒】

香港で生まれ育った写真家として、街を歩きながら切り取る食の姿は、いつも単なる料理以上の意味を帯びている。その中でも蜜汁叉燒は、私が最も愛してやまない香港の味のひとつであり、これまで何度もレンズに収めてきた被写体だ。撮影回数の多さは、そのままこの料理が人々にどれほど愛されているかを物語っているように思う。

焼き物の原型は三千年以上前の殷商時代にまで遡り、宮廷の中で培われた火の技術が、現代の香港の焼味店へと連なっている。かつて豚肉を叉に刺して焼いた「插燒」は、広東の地で「叉燒」へと変化し、香港でさらに独自の発展を遂げた。ショーケースに吊るされた赤い肉を見つめながらシャッターを切るとき、私はその奥に流れる長い時間の層を感じずにはいられない。

甘さが生む、香港ならではの進化

厨房で蜜や麦芽糖が塗られていく瞬間は、何度見ても美しい。醤油や南乳、五香粉で味付けされた伝統的な叉燒に、甘みが重ねられることで、香港ならではの蜜汁叉燒が完成する。その表面が高温でキャラメル化し、光を反射して深みのある赤色に変わる過程は、まるで一枚の絵画のようだ。

私がこの料理を何度も撮影したくなる理由のひとつは、その表情の豊かさにある。同じ叉燒でも、店ごとに焼き加減や甘さ、色合いが異なり、そのバリエーションは驚くほど多彩だ。写真として切り取るたびに新しい発見があり、決して同じ一枚にはならない。だからこそ、私は何度でもカメラを向けてしまうのだと思う。

庶民の暮らしに根付く、叉燒という存在

香港の街を歩けば、焼味店の前で人々が叉燒を選ぶ光景に必ず出会う。「加餸」として日常の食卓に少しの贅沢を添えるその習慣は、この街の文化そのものだ。給料日や祝い事のときに叉燒を買う人々の姿を撮影していると、料理が単なる食事ではなく、感情や記憶と強く結びついていることを実感する。

さらに叉燒は言葉や文化の中にも深く入り込んでいる。広東語の言い回しに象徴されるように、それは生活の価値観の一部として共有されている存在だ。そして飲茶の世界では、叉燒包や腸粉へと姿を変え、無駄なく循環しながら人々に親しまれている。

本来の意味での「叉」も「焼」も用いられていない、日本の面白い「チャーシュー」

そして非常に興味深いのは、日本にも「チャーシュー」という名前が存在することだ。ただし、それは香港の叉燒とはまったく異なる存在であり、見た目も製法も別物と言っていい。日本のラーメンに乗るチャーシューは、煮る、あるいは低温で調理されることが多く、本来の意味での「叉」も「焼」も用いられていない。名前だけが受け継がれ、中身はまったく新しい料理として発展したその姿は、食文化が国を越える中でどのように変化するのかを象徴しているように感じる。

私にとって蜜汁叉燒は、単なる「好きな食べ物」を超えた存在だ。何度も撮ってきたその姿の中には、香港という街の温度、変化、そして人々の営みが凝縮されている。だから今日もまた、街角の赤い光に惹かれ、私は静かにシャッターを切る。