レンズを覗いた瞬間、まず見えたのは、乳白色に濁ったスープから立ち上がる、ゆるやかな砂鍋雲吞鶏の湯気だった
香港で生まれ育った僕にとって、この砂鍋雲吞鶏は、単なる一皿の料理ではない。それはむしろ、見えない時間の層が幾重にも重なった「風景」だ。シャッターを切るとき、僕はいつも、その湯気の奥に潜んでいる江南の記憶を追いかけている。
この料理の核心には、上海を中心とした江浙文化の精緻なスープ哲学がある。新鮮な鶏と金華ハムをゆっくり煮込み、旨味を極限まで引き出す技術は、「醃篤鮮」の思想と重なり合う。香港の厨房に立つ師傅たちは、それをただ再現するのではなく、街の湿度やリズムに合わせて微妙に変えてきた。写真に写るそのスープは、単なる味覚の記録ではなく、移民と時代が交差した痕跡でもあるのだ。
そして、鍋の中を覗けば、静かに沈む大きな餛飩たち。元宝のような形をしたそれらは、どこか祝祭的でありながら、同時に日常の温もりを帯びている。僕のファインダーの中で、それらは語りかけてくる。「ここは上海ではない、しかし上海は確かにここにある」と。
香港の食卓、外来と日常の境界線
香港という都市は、いつも外から来たものを受け入れ、それを自分のものにしてしまう場所だ。砂鍋雲吞鶏もまた、その典型的な存在である。上海料理店に入れば、この料理はほぼ必ずメニューの中心にあり、どのテーブルでも湯気を上げている。それはまるで、この街が外来文化をどう扱ってきたかを示す、一つの象徴のようだ。
僕が何度も撮影してきたのは、その「当たり前」の光景だ。家族の集まり、年末の宴、あるいは静かな誕生日の祝いの席。砂鍋は常にテーブルの中央に置かれ、誰もがそこからスープをすくう。その瞬間、香港人にとってこの料理は、もはや異国のものではない。けれど完全にローカルでもない。その曖昧さこそが、この街らしさなのだ。
さらに興味深いのは、雲吞の違いに対する香港人の敏感さである。細く繊細でエビの風味が豊かな広東式ワンタンとは対照的に、この料理の餛飩は大きく、厚い皮に包まれている。写真に収めると、その差異は一目瞭然だ。だがその違いこそが、この料理を特別な存在にしている。違うものを違うまま受け入れる、それが香港の流儀だ。
確実に変化してきた砂鍋雲吞鶏の裏には香港という編集作業
しかし、この料理は決して過去の遺物ではない。香港に根を下ろす中で、砂鍋雲吞鶏は確実に変化してきた。その変化を最もよく捉えられるのは、やはり写真だと僕は思う。油を丁寧に取り除いた透明感のあるスープ、そこにたっぷりと加えられた白菜や青菜。それらは、港人の味覚と健康意識に応えるための、静かな編集の結果である。
料理人たちは、オリジナルを尊重しながらも、香港という都市に合わせて調整を続けた。その結果、この一鍋は「スープ」「肉」「野菜」「主食」をすべて内包する、合理的でありながら贅沢な存在になった。写真で見ると、それは一種の完成された宇宙のようにさえ思える。
僕がシャッターを切るたびに感じるのは、この料理が持つ時間の厚みだ。江南から渡ってきた味が、香港で磨かれ、そして今もなお更新され続けている。その姿は、まるでこの街そのもののようだ。だからこそ、僕は何度でも撮る。湯気の向こうに、消えない物語がある限り。
先に言っておくと、私の本業は写真だ。二十年以上、香港で千を超えるレストランを撮り歩き、皿の上の一瞬の光を追いかけてきた。料理は逃げないが、美味しく見える瞬間は逃げる。だから私はいつも、まるで事件現場を調べる刑事のようにレンズを構える。犯人は光、被害者は影、そして私はその関係を暴く。
そんな私が、ちゃっかり翻訳もやっているのは単に語学が好きだからだ。写真で皿の表情を捕まえるのと同じように、言葉にも“いい角度”がある。中国語と日本語をいじって楽しむのも、結局はその延長線上だ。
このサイトに写真・デザイン・飲食だけでなく、言語の話題まで並ぶのは──まあ、そういう性分ということだ。
