湯気の立つ麺の上でサテーソースが光り、塩気の効いたハムと滑らかな卵がパンに挟まれている。そこに添えられるミルクティーや鴛鴦は、苦味と甘味が混ざり合い、疲れた身体を瞬時に目覚めさせる。

粵と英が交差するテーブルの風景

香港で育った僕にとって、「中西合璧」という言葉は決して抽象的な概念ではなく、朝のテーブルに置かれた一皿一皿の中に具体的に存在しているものだ。写真を撮るようになってから、その混ざり方はさらに鮮明に見えてきた。茶餐廳に足を踏み入れると、バターの香りが立ちのぼるトーストの横に、広東風の炒蛋が寄り添い、英式の紅茶がミルクとともに注がれる。その光景は、ただの「料理の組み合わせ」ではなく、歴史と労働と生活の痕跡そのものだ。

もともと香港人が言う西洋料理の多くは、実際にはイギリス由来の食文化であり、それに広東料理の感覚が自然に重なっている。ナイフやフォークで食べるか、箸を使うかという違いはあっても、その境界は曖昧で、カレーや即席麺のようにどちらにも属さない存在が同じメニューに並ぶ。その「雑さ」こそが、香港のリアリティだと僕は思う。レンズを通して見ると、その曖昧さが逆に強い個性として浮かび上がる。

労働のための朝、写真に残るエネルギー

イギリス統治時代の長い歴史の中で、香港には十九世紀的な栄養観に基づいた朝食文化が根付いた。高タンパクでエネルギー重視――それは労働者のための食事でもあった。かつて港町として発展した香港では、肉体労働に従事する人々が多く、茶餐廳の朝食は彼らの体を支えるためのものだった。

僕が撮影した「沙嗲牛麵と滑蛋火腿餐包」の一枚は、まさにその象徴だ。湯気の立つ麺の上でサテーソースが光り、塩気の効いたハムと滑らかな卵がパンに挟まれている。そこに添えられるミルクティーや鴛鴦は、苦味と甘味が混ざり合い、疲れた身体を瞬時に目覚めさせる。

鴛鴦が生まれた背景には、「コーヒーも紅茶も飲みたい」という庶民の欲望があると聞く。その発想自体が、香港らしい現実主義の表れだ。写真に写るのは料理だけではない。その背後にある生活のリズム、急ぎ足で食べる人々の気配、そして時間に追われる都市の呼吸も、一緒に写り込んでくる。

茶餐廳という記録装置としての場所

茶餐廳は、単なる食堂ではなく、香港という都市の記録装置のような場所だと僕は感じている。メニューの多様さは驚くほどで、トーストや通心粉、インスタント麺、さらには甘い麦芽飲料まで、あらゆるものが同じ空間で共存している。その雑多さを一枚の写真に収めると、不思議と統一感が生まれる。

僕がシャッターを切る瞬間、そこには「分類しきれない文化」が確かに存在している。誰かにとっては中華であり、別の誰かにとっては西洋風でもある料理。それでも最終的には「香港の味」として受け入れられている。
茶餐廳のテーブルは、文化の境界線が溶ける場所であり、同時に香港人の記憶が積み重なる場所でもある。だからこそ僕は、これからもこの場所で撮り続けたいと思う。皿の上の光と影、その一瞬に、香港という都市の本当の姿が映っているからだ。