中国から日本へ、魚を練る手と土地の記憶
一枚の料理写真を撮るとき、私が最初に見つめるのは完成した皿だけではない。魚が揚げ油の中で色づくまでに、どのような土地の水と、人の手と、暮らしの時間が重ねられてきたのかを想像する。中国、日本、台湾、韓国で親しまれている揚げかまぼこは、いずれも魚のすり身を形づくり、熱を加えて保存性と風味を高めた料理である。しかし、同じ魚のすり身から生まれながら、その表情は土地ごとに驚くほど異なっている。
中国南部や香港、マカオで見かける魚餅は、魚そのものの香りと、手仕事による力強い弾力を残している。すり身に葱、胡椒、陳皮、クワイなどを加え、繰り返し叩いて粘りを引き出す。黄金色に揚がった表面には細かな皺が生まれ、切り口には素材の粒や繊維が見える。その断面を接写すると、料理人の手が魚の身に与えた時間まで写り込むように感じられる。
中国の魚餅を撮影するときは、表面を均一に美しく整えすぎないことが大切だ。少し不揃いな輪郭や油の泡が残した痕跡こそ、手作りであることを物語る。側面から柔らかな逆光を入れると、皺の高い部分だけが光を受け、深い黄金色の陰影が立ち上がる。切り分けた一片をわずかに手前へ向け、葱やクワイが見える断面に焦点を置けば、見た目だけでは伝わりにくい密度や歯応えまで想像できる写真になる。
日本のさつま揚げは、同じ魚のすり身を用いながら、より繊細で整った造形を持っている。牛蒡、紅生姜、枝豆、人参、海産物などを練り込み、甘味を含んだ穏やかな味に仕上げる。鹿児島では「さつま揚げ」、関西の一部では「天ぷら」と呼ばれるこの食べ物は、酒肴にも日々の惣菜にもなり、おでんのだしを吸い込む具材にもなる。撮影前に表面を軽く炙り、焦がしすぎない程度の焼き目を添えると、端正な形の中に人の手と火の温度が現れる。薄い醤油は油を帯びた表面から流れ落ちやすいため、撮影では少しだけ濃度を持たせ、持ち上げた瞬間に一滴が残る状態を狙う。その小さな反射光が、写真の中に味の入口をつくってくれる。
台湾と韓国、街角の湯気が育てた日常の味
台湾の甜不辣や黒輪を前にすると、魚のすり身料理が海を越え、異なる食文化を受け入れながら変化してきたことを実感する。日本語の「天ぷら」や「おでん」に由来する呼び名を残しながら、台湾の気候、夜市、屋台、揚げ物文化に適応し、独自の食感と食べ方を獲得している。すり身に澱粉を加えることで、揚げた瞬間に大きく膨らみ、外側は香ばしく、内側には強い弾力が生まれる。煮込み、炭火焼き、塩酥鶏の店先での揚げ物など、同じ素材が異なる風景の中に自然に溶け込んでいる。
台湾の甜不辣を撮影するときは、油から上げる時刻とシャッターを切る時刻を、ほぼ同じ時計で管理しなければならない。揚げすぎると表面が濃く硬くなり、魚のやわらかな色合いが失われる。反対に、適度な金色で引き上げれば、表面は丸く膨らみ、油の細かな輝きも残る。しかし、その膨らみは長く続かない。温度が下がるにつれて急速に縮み、表面に皺が寄るため、本番前には同じ形の替えの食材で構図と焦点を決めておく。主役を置いたあとの短い時間こそ、甜不辣が最も生き生きとして見える瞬間である。
添えられた甘辛いソースも、台湾らしさを伝える重要な色彩になる。写真の「甘辛だれの揚げかまぼこ」では、素朴な陶器の中央に重ねた薄切りの揚げかまぼこへ、艶のある赤褐色のたれが流れている。白灰色の器、黄金色の魚餅、濃い赤のたれ、温かな木の卓上という色の重なりが、料理を中央へと導いている。たれを全面にかけてしまうと、魚餅の焼き色や肌理が隠れてしまうため、上面と縁へ部分的に置き、下の層には素材本来の色を残す。濃度のあるたれなら表面に留まり、照明を小さく反射して、甘味や粘りを視覚的に伝えてくれる。
韓国のオムクは、さらに別の街の記憶をまとっている。薄い魚糕を波形に折り、長い串へ通し、昆布や煮干しなどのだしに浸す。寒い季節の屋台では、串を片手に熱いスープを飲むという動作そのものが食文化になっている。ここで撮りたいのは、整った商品写真だけではない。鍋から立つ湯気、だしに濡れた魚糕の光、竹串の繰り返す直線、その向こうにある冬の空気である。薄い魚糕はスープに浸しすぎると重みで垂れ、波形が崩れてしまうため、撮影直前に短時間だけ温める。暗い背景を選び、後方から光を当てると、湯気は白い線となって浮かび上がる。必要なら画面外に熱湯を置き、食べ物に触れない自然な蒸気を背景へ導くと、清潔さを保ちながら温度を表現できる。
一枚の写真に残す、味の違いと共通する海
四つの土地の揚げかまぼこを並べてみると、食感の違いはそのまま暮らしの違いとして見えてくる。中国の魚餅には、魚の濃い風味と手で叩いた密度がある。日本のさつま揚げには、具材を整えて練り込む繊細さと、だしや酒に寄り添う穏やかさがある。台湾の甜不辣には、揚げた瞬間の力強い膨らみと、夜市の灯りに似合う甘辛い艶がある。韓国のオムクには、スープを吸い込む薄さと、寒い街角で人を立ち止まらせる温度がある。
料理写真では、すべてを最も美しい状態に整えることが正解とは限らない。中国の魚餅に残る皺、日本のさつま揚げの淡い焦げ目、台湾の甜不辣が膨らんだ短い瞬間、韓国のオムクから落ちる一滴のだし。それぞれの不完全さが、その料理がどのように作られ、どのように食べられてきたかを語っている。揚げ色を濃くしすぎず、切り口を乾かさず、たれは素材を覆い隠さない程度に濃くし、光は油の艶だけでなく表面の起伏を拾う位置へ置く。撮影技術は料理を別のものに見せるためではなく、料理がすでに持っている記憶を見つけやすくするためにある。
シャッターを切ったあと、器の中に残るのは一つの魚のすり身料理にすぎないかもしれない。それでも写真の中には、港へ運ばれた魚、すり身を叩いた手、屋台の鍋、酒席の皿、夜市の油、冬の湯気が同時に存在している。海は土地を隔てる一方で、魚を食べる知恵を遠くまで運んできた。私は料理写真家として、その土地でしか生まれない色と温度を見つめ、食べ物の向こう側にある文化と伝統を、一枚の静かな光景として残していきたい。
先に言っておくと、私の本業は写真だ。二十年以上、香港で千を超えるレストランを撮り歩き、皿の上の一瞬の光を追いかけてきた。料理は逃げないが、美味しく見える瞬間は逃げる。だから私はいつも、まるで事件現場を調べる刑事のようにレンズを構える。犯人は光、被害者は影、そして私はその関係を暴く。
そんな私が、ちゃっかり翻訳もやっているのは単に語学が好きだからだ。写真で皿の表情を捕まえるのと同じように、言葉にも“いい角度”がある。中国語と日本語をいじって楽しむのも、結局はその延長線上だ。
このサイトに写真・デザイン・飲食だけでなく、言語の話題まで並ぶのは──まあ、そういう性分ということだ。
